「SNSという社会」

『SNSという社会の中で』
2023.12/03 日曜

僕らは、お金に恵まれない時代、に生きているのと同時に、最先端の文明機器、に囲まれて、生きています。スマホが不幸を生む矛盾も起きているし、本当に良質のコンテンツを生むだけなら、問題は無いけれど、何でもかんでもネットに投稿している、単なる「ナウ」を伝え続けている、〈ナウ難民〉も生まれている。僕らは、どんな情報に反応しているでしょう。誰かの悲痛な心の叫びが、誰かの心に傷を付ける。いいね、が単なる注目させるツールにもなっていて、いいねが無いつぶやきが、時代の奥にある病の真相を突いている場合、もある。社会って前向きも後ろ向きも含めて、支え合ってそれぞれが生きられるパワーを循環させていく営みでもあり、日常が躍動感に満ちているのは、言葉や態度や表現や表情のなかにメッセージが宿っていることを、僕らが読み取っているからであり、心をえぐられてポッキリ折れてしまう経験もあるが、それは、誰かが求めているレベルに見合わないから、頑張れという意味も込めて、現実の厳しさを含めて伝えている側面だってあるんだと、思います。嫌いだから冷たくするんじゃない。好きだから、受け手が被る悲劇もいとわずに、今抱えている現実を超えていこう、というメッセージを、真っ直ぐ伝える人も居るんです。

僕らはうわべだけで保護されても、嬉しくない。金銭的な幸福も、愛情的な幸福も、必要だと考えている全ての人たちは、うわべだけの言葉や賛同を、重要視したりはしない。本当に改善しないと駄目だ、とみなす課題や、繰り返しがちなミスの原因を、気付かせて、反省をさせて自己修正させること。僕らが痛みを感じるような強く厳しい圧をもって、相手の弱点や偽善、見えていない問題点、気付いているのに見直そうとしない甘さを、指摘する人がいること。それは、受け手がかつて気付いて分かっている問題点、かも知れない。それを看過して欲しい、見ても見ない振りをして、うわべだけの保護を与えて欲しいと、少なからず思っていた問題点だとしたときに、悲痛な現実との直面と認識がもたらされるわけです。

逃げたい、今は向き合いたくない。そういうタイミングで、大きなターニングポイントがやってきます。すぐには解決できないであろうこと。問題点と気付いてから、自分で己の習性を反省して、新規に歩み出しても、常に念頭には重たい課題があって、どうしたら乗り越えられるか、または、この問題点は生きている間は、常に認識し続けるべき日々の教訓なのかも知れない。相手が理解を示して、保護してくれたとしても、冷たく問題点を指摘して言い放ったとしても、抱えている課題と問題点は変わらず存在しているはずです。そのからくりというか、アイロニーというか、向き合うべき対象は、あなたが気付いていながら自分に甘くして、見過ごして野放しにしてきた事柄なのです。

SNSという社会は、そうした相互監視社会を作り出しています。その歯車にかみ合うように生きて行くには、お互いに何事も見守るだけ、の距離感というルールを徹底させるか、互いの侵犯領域に踏み込んで、ズケズケと相手に問題点を指摘して、傷もいとわず言い放つ愛をもつか。色んな出来事があると思います。まだ整備されていない点もあるネット社会で、強く生き抜くことは、何にもまして大事なことになっていくでしょう。僕らの現実は、ネットという新たなステージで、痛みをはらんだ膿や、病んでいる関係性をあぶり出して、最終的な審判をあなた自身が下す必要性を迫ってくる。生きて生きて生き抜こう。

今日は、ネット社会について、記事を書いてみました。

皆んな元気?

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