[性欲から離脱する]
『性欲との別離』
(エロスへの不信感)
〜2025.02/03〜
はい。ららChanです。今日は性欲と決別するという報告を、解説していこうと思います。性欲は、個人のライフから時間と体力を食う悪魔だ、と思っています。現実の何が欲しくて、性欲を生み出すのか。年老いた男女にとって、セックスはもう若い頃の回顧に過ぎない。若い肉体には性欲が似合うし、それを行動の原理にする権利がある。自由と恋愛の形は中年以降の男女の場合、軽い気持ちの方向性のニュアンスという意味しか持ち得ない。
若い人々を眺めても、遠い日々の自分の面影を重ねてみるだけで、僕ら老体の主体として生きていく上で、自由も恋愛も気持ちのニュアンスくらいの意味しかなくて、実体がない。誰もいない部屋でセックスは起こり得ない。健康を害する快楽をもう追求する動機はないし、セックスは時間と体力を奪う、もう1人の裁判官である。肉体に欲望する事は偽りであり、もうそこに感動も興奮もない。
空虚な部屋にエロ本が開いたまま置かれている。そのエロ本を、もう見たいと思うはずもなく、若いだけで嬉しいという無垢で奔放な蕾が、生きてきた時空間で枯れてきた事実は変えようがなく、エロスとは違う軸で生き直すこと。もう手放そう、エロ本もポルノも性欲も。いつも感じていた。生きていくってエロスへの奉仕だと洗脳されてたんだ。小学生の時の芽生えみたいな過去の思春期の自分は、もう今は必要ないし時の奈落に消し去っても良いじゃない?
今は冷静に生きていく事を学び直そうと考えている。時間も体力も使うべき相手はセックスではなく、芸術とか趣味とか学問とか、コンピュータの扱い方であるのが、白髪混じりの男女であって、オナニーするだけで寝てしまう弱体化した精神を弄んでいて、良いはずがない。それじゃ猿とか獣のような不自由さと、何も変わらぬ盲目なエロス信者という偽りの運命しか未来にない者の抱く、悪徳の巣窟から出られない。
牢獄から抜け出て、本当の日々を知る事。そんな見たことのない色をした日々の基軸を、昔に貪ったエロスに置くのは、今をときめく奔放な若者くらいなのに、僕らのような知能や哲学を持つ能力がある規範的人間が、心を許して身を委ねていい対象ではないからさ。人生の価値は、もっと広くて無限に散らばる虹を構成する粒子のような、掴みたくても掴めない遥かな憧れであるはずだ。それが幻想だとしても生き直すと、僕は決めたんだ。(今日は此処まで)