世界は広かった

『マインドを維持する』
〜弱い自分を知ってる今〜

はい。ららChanです。今日はマインドって何?マインドを維持する事で、何が変わるの?そういう思考の解説をして行きたい。出来る自分になって、出来ない他人にダメ出しをする人は、下を見てる人。出来ない自分を認めて、一歩ずつ学んでいく中で、人への尊敬を保てる人は、上を見てる人。どちらも上へ向かって努力するのは同じだが、結局、上を見てる人が良いとか、下を見てる人がどうとかいう問題は、ジャッジ精神なので、人生においては副次的なもので、どうでも良い問題の一種です。

誰もが、そういう自分が好きというエゴにより人の自分が好きというエゴを、一部分の理由で裁き合うだろう。見えてなかった部分が見えてくるとき、人は虚無に面するような自分の思考の無意味さを知る。殺人者の弱き人への労わり。金持ちの人間のブランド物への多大なる無駄使い。色んな部分が不意に見えてくると、一面的な認識で人を裁く事が、如何に無意味か、人の価値を線引きする認識の甘さが身に染みて分かります。何処にフォーカスして人と接するか、どういうフィルターで人を見ようとしてるか、何かをやる側も受ける側も、自分がどう在りたいか、人にどう接するかを、もっと視野を広げてみることが大事です。

一個のことで全てを判断せずに、それぞれがその時のベストを尽くすだけ、である。限られたリソースで、限りある生産活動をするだけだと、いうこと。気持ち良いことも、苦い気分の時も、一貫として自分の在り方に尊厳を持つこと。つまり、尊敬できる自分であろうとする、努力に尽きる。

物事を多面的に見れるようになったら、狭い角度から一面的に決めつけて、人を動かそうとすること、自分を一面的な部分で人より高くあろうとすることは、愚かな選択であり、その愚かさも自分の事として分かってくると、自分が一体何者かさえも分からなくなってきて、判断不能の状態になっていきます。それでも良いじゃないか。そういう訳が分からなくなった自分も、愛せばいいじゃないか。

どういう自分であれば良いのか分からないけれど、目の前にいる愛すべき人を愛して、感謝して、日常の物事を何事もなく処理できるならば、それは愛に生きているという自覚に落ち着くのでは無いか。世界に生まれ今を過ごすことに、大きな感謝があるならば、その世界というものに自分が愛されていると、考えればいいと。

人はありのままを認めることで、最後の生き方へと進んでいく。愛に生きて、愛されてることを感じながら、生を謳歌すること。一面的には正しく無い事でも、感謝と愛の論理で生きる者には、必要な選択だったりもする。自分がそういう道理であるからこそ、人にも同じような無条件の自由を認めてあげること。

それぞれの生きる道は別々にあるから、選ぶものも言葉も思考も全てが違ってくる。そこに、この世界の多様性があって、違うことへの愛を育てていく契機があるわけです。マインドを持つこと。それは、あらゆる違いを視覚化した万華鏡を見て、この世の多様性を目に焼き付けること、何も大きなことは言えなくても、世界最大の真理は、万華鏡の世界を知った者の中に生まれるのだ。

愛は裏切られて更なる愛に育つと。そんな悲しい不幸も、慈しんで受け入れる人間が一方にいる、世界は何と不思議なものであるか、知り得ましょう。(今日の執筆おわり)

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