掌編 異なる月 final

「異なる月」  作者:いっとまん (ららChan)

疲れ切った体を抱え、ただ夜道を急ぐ。ミロの瞼裏に、殴り付けられた二重の色。ひとつは、エリーナの思い詰められた黒き表情を覆う、あの冷たく気怠い藍緑。もう一方は、海岸沿いに始まる広大な礫漠に舞う、熱砂の焦げ付いた紅。二つは、脳内で混じり合い、ゼリー状の原始生物となって、苦悩の元に収斂される。
筏は、長かった航海にも関わらず、持ち堪えてくれた。岩場に生えていた背丈の低い灌木に、何かの為にと縄を廻して残して来た。大地の重力が、海上生活の名残の為か、強く感ぜられ、身体が屑折れそうだった。藁屋根の集落が、町外れに密棲しているのがわかる。
昼間は風一つ吹かず、舟は二進も三進も行かず仕舞い。茹だる暑さにずっと悩まされた。
旅を続ける理由はひとつ。実在するエリーナに、一目逢いたい。道中、色違いの結晶石を加工して埋めた時計盤を、貧民相手にバラ売りして、銭を得た。生前、職人だった父が、大量に造り残した形見のコレクション。
ミロは、エリーナが何処かで生きていると、心細い気持ちに言い聞かせる。彷徨するだけの日々に、悪態を付いて。小さい頃から途切れなく夢に現れてくる不思議な女。悪夢だと思い込み、憎しみに似た不気味さまで、その女に感じて。いいや、ミロが成長していく間も、ずっと少女の侭の姿で、女と呼ぶには幼すぎた。
やがて青年に達した彼は、ある朝、夢から覚めると、エリーナに狂おしい恋をしている自分を発見して、心から驚き、急いで彼女を描いたペンダントの肖像画を何度も見返していた。憎しみも、時間が深く染み込む内に掻き消えて、知らずに育くんだ裏側の顔にクルッと反転したような。
ミロは、このエリーナと、夜毎の幻想夢を頼りに、唯一の関係を続けてきた。どんなに気分が沈んでいても、現実(うつつ)の喜びに浮かれていた時も。
乾いた風が砂を運んでくる。短期的に襲ってくるスコールは、僅かに生え育った樹木をなぎ倒す程に、力強かった。あちこちに乗り捨てられたバイクの、錆び付いた残骸が、国の貧困を証立てるように、砂を頭からひっ被り、大地の棺で寝返りを打とうと、軋り鳴いている。
毛布を纏った老人達は、今日の夜を越せるかどうかも判らぬ絶望の中で、旅人に悲しそうな視線を向ける。
もう昔のように、国々が独自の文化と学問を誇って、競争と協調を繰り返す時代ではない。自然環境が荒々しい変異を見せ始めてから、あっという間に地球は崩壊してしまった。
砂に塗れた大地は延々と続き、其処はもう、日々の暮らしを生き延びる為の、戦場に変わったかのよう。殆どの人間たちは、精力を抜かれた骸骨のように、座り込んでいるだけだったが。
エリーナは何処だろう。ミロは、答えなく反芻するが為に用意された疑問を、今また繰り返す。売り払って来た石の残りも僅かだ。背中の革袋に詰まって、固くゴリゴリしていた感触も、いまは痛みさえ感じない。
夜が明ける気配は全くなかった。眠りたい欲望を押し殺し、ミロはまだ歩き続ける。村の巨大な寺院の門前に着き、中空の廊下に燃える松明へ、温もりを求めようと、高く手を伸ばすミロ。壁の上に揺らめく炎は、微かな温もりすら、彼に与えなかった。
修行僧の朝は早い。忙しい仕事の一つひとつが、彼等を勤勉に駆り立てるのだ。裏手の岩壁に、削られたばかりの仏の一群が、未完成ながら磨かれた岩肌を輝かせて眠っている。
細く曲がりくねるボロ屋の隙間を、練り歩く。とある井戸の脇の椅子に腰を掛けて、背負った荷袋を地面に降ろした。
目を擦って、夜空を見上げる。
殆ど接するように並んだ、月と地球。同じ血筋を引いた双子の星。黄緑に萌える森を擁した月は、地球と同じ大気を共有している。地球を支配する殺伐とした紅き砂礫に比して、月のなんと豊かな彩色に溢れ、美しかった事か。
ミロがやって来たこの集落も、食糧不足に喘いで、死に絶えていた。彼は木の幹を削り、ライターで炙り、噛み締める。芳ばしい香りに、質素だが空腹を癒やされ、特に繊維質の木の葉に混ぜると美味しい。
夜風が肌を擦り抜けて、体温を奪っていく。
疲れが押し寄せ、ミロは忽ち昏睡し始める。目を閉じると、奇妙な夢の続き…。エリーナが、すぐ側にいるのが解る。それは、現実と見境が付かぬ程に、鮮やかな覚醒夢。日付を超える、時間結線を漂いながら。想いが、暗闇を明るく千切れて、流れ去る。
華奢な体躯を丸め、深い翳りの奥から、じっと此方を見詰める少女。溜息だけが、口から零れ歩いて行く。
眠っていたミロに、小犬がにじり寄って、小さく鳴きながら、洒落ついていた。
翌日、とうとうミロは、月へ移動しようと思い立った。月へと向かう機関車の乗り場まで、歩いても遠くない。ミロが、あんなに長い舟旅をしたのも、月へ向かう列車に乗りたい一心からだった。何故なら、エリーナはきっと、あの陰影深き月の裂け目に隠れている筈だ、と考えたから。 駅は、地球上に、九ヶ所しかない。その駅が、砂嵐の向こうに、大きな屋根だけ覗かせて建っている。
蒸気式の二両の列車は、客で満員だった。大半は、汚れた服に身を包む、労働者たち。ミロは、体を車内に何とか押し込み、連れて来た子犬をシャツの中に入れて、解放される時を待った。
実感として、一時間と少し経った頃か。
月面へと到着して、外へ弾かれるように飛び出すと、涼しい大気が心地良くて、ハッとした。森林に囲まれて、颯爽と歩く人々の長い影。地下に降りる階段が、魔女の笑顔のように、ミロを飲み込もうと、口を開けていた。
月の地下空間は、村で聞いた噂では、非常に広大だそうだ。微光を放つ地下水の、透き通った青色が、小脇に細く流れている。死んだ者の眠る墓が、何処までも並び、虚ろな空間に壮麗さを際立てていた。坑道は方々に伸びて、人間の姿はちらほら散見する程度。
ミロは、どちらに向かえば良いか、分からず、ただ勘を頼りに道を選び進んでいた。
気付くと、何色もの織糸で編まれた、埋め尽くす程の鮮やかなタペストリーに囲われたドームに立ち竦み、目が焦点を合わせようと戸惑いながら、狼狽した。
目前に、二体の巨大な彫像が…。天井のランプに照らされて、厳かな顔だけが、暗い大聖堂にボワっと浮き彫られている。天井まで届く程の圧倒的な高さに、言葉は出ない。地下水が鍾乳石より滴る音が、やけに強く耳に残った。
遠い記憶が像に重なって行く。右側の女体像はエリーナだと思われ、難しい顔をして訝しんだ。その確信は強まるばかり。暫くすると、短い驚嘆の声が、何度も口を突いて出た。
男女像の面差しは、互いに向き合う事も叶わず、鋭い視線を虚空の彼方に凝らすばかり。
昼と夜が重なる僅かな時間、紅砂の地球から深森の月へと架設される銀河の橋。ミロに流れる血潮と、植物のようなエリーナから絞り垂れる葉液。異なる月ゆえに引き裂かれる悲恋を背負った二つの魂。列車は、異なる二人を結ぶ糸のように、軌跡を残して、ひた走る。
ミロは、探していた答えに出会った唐突さに、何か隔てられたような孤独を感じた。想像より呆気ない終わりを予想し、一瞬こわばった顔をした。何だか悲しい気持が込み上げてくる。エリーナの姿は、これだったろうか。
その像は、確かに見事な作品だった。写実的な現代性と、建造に要したであろう甚大な人手を加味すると、制作年代はどうも不確かで、推し量れない。
そもそも、ミロの中に、生身のエリーナが宿り始めたのは何故だろう。長い距離を越える程に知覚が拡大したか、生まれついた星雲が異様な動きを示したのか。
薄暗い堂内は、ミロしか見当たらなかった。彼は、エリーナ像の周りをウロウロと歩きながら、その顔を子細に確かめた。
「やっぱり彼女だね」
遺跡から湧出する幻想を、心の杯に満たし終わり、無言の虚しい祝辞を告げた。
この女は、いったい誰なのだろう。ふと、強い疑念が頭を擡げて、エリーナをもっと知ることは出来ないか、と今更ながら想起した。
きっと、動物を率いて海を渡った女導師か、果ては、昔日に幽閉の塔で眠り続けたと謂う、彼の呪われた鬼女に違いない、と想いの翼が生えて羽ばたくと、妙に得心した。ミロの薄い口元は自然と綻び、窪んだ頬が勝手に紅潮するに任せた。
ふと、像の裏側に回って見た。エリーナ像の足元に、崩れて開きかけた扉があった。突然、抱えていた子犬が、その中へ走って消える。誰か居るのだろうか。ミロは痩せた体を急がせるように折り曲げて、内部へと踏み入った。
写真が、階段に貼られて並んでいる。古く焼けたものばかりで、何が映っているか判然としない。それらは、保管された倉庫の図書でしか見たことの無かった、街の光景に似ていた。
暖かい空気が、上方から流れて来る。誘われるように、上へと急いだ。心が無性に泡立つ。とうとう光溢れる部屋へと、到着した。
輝く水面に浮かぶ中洲に、座り込む少女がひとり。白いドレスが、彼女のオレンジ色の肌を、幾重にも覆い、裾は水で濡れていた。女神の像に、こんな空間が隠されていたとは。
ミロは、言い表せない感動に胸を掴まれ、燦々と降りてくる光の滴を浴びて、立ち尽くす。膝もとが濡れるのも厭わず、彼女にもっと近寄ろうと考えるが、また迷い戻り。
ああ。夢で知っている、あのエリーナじゃないか。ミロは、己の想像の産物に過ぎなかったエリーナを目前にして、昔年の苦労を忘れ、喜びに勇み、酔い痴れた。
子犬は、彼女の懐に半ば埋もれ、両手に抱かれている。目を閉じて、心地良く眠っているみたい。
ミロは、戸惑う。本物のエリーナだと云う保証は、何処にも無い。だが心の声は、そうだと強く訴える。いったい誰が彼女をエリーナと名付けたのか。
ミロは、いつのまにか、長い人形劇を開演して以来、主演がエリーナである事に疑いを挟まず、そう命名された彼女の経緯さえ、思い出せなくなっていた。
すると、彼女のほうが、少し彼を見て、訊いた。
「お父さん? 」
ミロは、意味が判らない。
エリーナは冗談の積もりで、そう言ったのよ。
「エリーナ、エリーナ」
ミロは、連呼した。今度は、彼から尋ねてみた。
「どうして此処にいるの」
沈黙のあと、彼女が言った。
「覚えてないわ、そんな事。もう此処に来て、随分と経つもの。あなたの事、前から知っていた気がする。此処に居る間、ずっと我が身を隠し続けて、どうにも寂しくて仕方なかった。だから話し相手を勝手に作って、遊んでいたの。でも、これ以上話すことはないわ。これからだって、誰にも会わず、生き続ける。だって、私は永遠の命を授かったのよ。多分、あなたも何処かで、同じ運命を辿るでしょう。何故なら、私の隣に建つ男性像は、ミロ、貴方だから。でもいまは、此処から立ち去るべき。時が経てば、私とあなた、何れ再会する運命なのでしょうね。地球には、人間たちがまだ沢山残っている。あなたも、早く仲間を作らなければ。そうしたら次は、大きな町を築くのよ。其処は、きっと沢山の人たちで賑わう、自由と愛に溢れたコミューンになって…」
「ああ、わかったよ、エリーナ」
月という奇妙に発達した惑星で、遭遇した奇跡。ミロの胸に生きていたエリーナが、こんな形に結実するとは。
伝説に語られるエリーナは、アメリヤ州にあった山間のミルボサ地区で、青春の日々を送った、と謂われる。そんな昔の話に耳を傾ける者など、もう殆ど生き残っていない。
当時、中等教育の学院生だったエリーナは、驚くほど大きな夕陽が橙色に燃え盛り、やがて輪郭が溶け落ちて、ギラギラと水平に揺らぎ沈む頃、忽然と消息を絶ち、続けられた捜索も迷宮入りした。
人々に忘れられてしまった少女。そんな彼女が、月の地下の像に身を寄せて、いまも眠るようにひっそりと生き長らえていると、誰が想像しようか。
人の生涯は旅だと云う。あの日見た光景は、限りない喜び、孤独の真実を彼に教えた。針の振動さながらに、精妙で緊密な関係を保ち続ける、双子の惑星。
世界はあれから三度、変遷を重ねた。
異なる月は、どんな顛末を辿るでしょう。
家庭の庭で朗々と謳い遊ぶ子供さえ、遙かな日々の記憶。子供は確かに知っていた。月に兎が棲んでいる逸話の数々を。
口々に囃し立てる嬌声が、碧き森に木霊する。
「寂しい少女は、ウサギの末裔だったの! 」
「月には勿忘草が沢山生えていてね。エリーナが散歩するのよ」
「そうそう! 少女は、毎日草を摘んで、大きな首輪を幾つも作るんだってね」
「ミロが少女に心を寄せたのも、きっと孤独な者としての縁(えにし)が導いた悪戯よ」
そう云えば、ミロを見たと云う者が何年か前に現れたが、ミロが残した足跡は、確かに大地に刻まれ、風化される事はなかった、と伝えている。
風の噂は、辺境の民の間に広まり、やがて各地に飛び火した。民衆らは、二人の行く末を偲んで、秘めやかに語り合った。
いつか、月と地球の、美しき恋の物語、となり。
――「ミロ、いま何処で、私の夢を見ているの・・・」(了)

エリーナが居た月面の洞窟

Follow me!