掌編2 「自由」

「自由」 作者 いっとまん (ららChan)

1.(前置き)
あの病が私に存在否定の烙印を押し付けた時の事だった。初めて自由になれた気がしたのは。正に一瞬の事件といえた。確実に私の気質はそれを境に変わった。今までどんな苦労も厭わず運動でも勉強でも優秀であろうと精一杯の努力を注いで来た。だがその半面徐々に自分が纏おうとしていた理想の姿は色褪せて行った。その上小さな殻の中に閉じ込められた様な息苦しさが巣食い始めて我慢出来ないまでに膨らんでいたのも事実であった。発端は暴力という許されぬフィクションだった。在ってはならない、在る筈がない世界。だが事実それは存在したのだ。現代という仮面の裏に潜む一種の「病」として。高校に入って未だ一週間も経たない頃の事。私は不良グループの頭に呼び出され徹底的なリンチを受けた。周りからはそう云う事に関与しただけで異端視される。口は異常に腫れあがり破れた傷口から血が流れ数本の歯は今にも取れかかっていた。悪夢に思えるその記憶は以後の私を無理やりに変えてしまった。そう。全ての柵が吹っ切れて自由になれたのだ。しかし一方で絶対的な力の前に平伏せざるを得ぬ屈辱と恥ずかしさは私を収拾のつかない混乱へと導いた。ここで私は少々自分の内幕を愚かに語り過ぎた感に気付く。以後は物語に換えて私の伝えたい事を君に告げよう。私はこの前置きと本編との間で分裂などしていない。どちらも一つの私だから。分裂とは過去との決別を恐れる躊躇の時代だと云えまいか。過去と現在が争い合う様相。私は既にこの過去とは決別した積りさ。眠たいなあ。夢の中で君に会えるかしら。
2.(本編)
近藤ヒロはあの第二次成長期と呼ばれる憂鬱な時間の中を嫌悪しながら過ごしていた。
「あんたはどんな人になりたいと思うの」と母はよく彼に尋ねた。
社会は不景気のどん底。誰もが不平を隠し手に負えない不機嫌を飼っている。友人の友人が自殺しただの、何処其処の教団が人を殺しただの、危険な兆候が行き交う世界。人間が自らの尊厳を保つ事に突如我慢の緒が切れた様だった。当たり前と看做される存在意義や行動様式が俄かに崩れ始めモラルと云う安全が消えたのかと思われた。駅前の交番の横に青少年人生相談の広告が時代から受けた懲罰の様に直立していた。
ヒロの部屋。カーテンが引かれて半透明の薄暗い空気が立ち籠る中で机の上に用済みになったティッシュが排泄物を包んで萎びている。家の側の公園に彼は居た。空を何となしに見上げて呟いた。
「何てこった。よくよく考えると俺は生活という必然の法則を守って来ただけの男じゃないか。俺が掴んだ自由の意味なんて便所に流れる汚物と同様だ」
気が抜けた状態は暫らくヒロの空想を逞しくした。
「そうだ。まだ俺の人生には無限の時間が残されている。その気になったら遠くの海まで歩いて行ってもいい。でも今はそんな無茶はしない。俺は映画祭のスタッフの一員なのだ。一週間の辛抱だ。この仕事が終わったら本当に俺は自由になるぞ」
ヒロは踵を返して自宅へ向かった。帰り道のついでに画家を目指している親友のマユコの家を訪ねた。二階の部屋に居るマユコが窓越しに見えた。いつも通り鍵の掛かって居ない玄関を開けて一階に居た彼女の母へ挨拶を済ませ階段を昇る。
「この頃は何を描いているの」
ヒロは興味本位に尋ねた。彼女は静かに語った。
「山よ。険しく聳える冬の山よ。人間には手の及ばない荘厳な生きた儘の自然を描くの」
彼女は自分の画布を眺めて言った。
「あなただって、自然の一部に過ぎないでしょう。あら。いつもの悩み事かしら」
ヒロは変な思い付きを口にした。
「俺は人生が機械の様にプログラムされたコマンドの範列だと感じるんだ。束縛の連鎖が僕に命令を出す。これは悩みなんかじゃない。本当の事実に気付いただけなんだ」
マユコはヒロの手に握られている紙切れを見つけて言った。
「それ何。明日から始まる映画祭の演目表じゃなくって。人生と絵画と映画。これ以上理想の組合せは見つからないわ」
「自然も何かのプログラムなのかな」
ヒロはそう言って考え込んでしまった。
…そうだ。求めている生活や幸福が何故未だに手に入らないのか。プログラムされた人生なら自分で書き換えたらどうだろう。…
彼は不敵な笑みを浮かべてマユコの心配気な顔をはぐらかした。明日の映画祭は自分の人生を考えるきっかけになるとヒロは思った。マユコは帰ろうとするヒロに言い足した。
「わたし映画祭見に行くわ。映画って生きている現実の自然を抽象化された死んだ人間の思想を通して描くものだもの。そうだ。人間は死んだ後に初めて充実して満ち足りた時間の中へ戻れるのよ。生まれたと同時に奪われる何か重大なものを死後取り戻すのよ」
ヒロは鞄を手探りして、今夜関係者向けに事前上映会がある事を思い出してチケットをマユコに差し出した。彼女は快く受け取った。
マユコが云う様な死んだ後の人間の物語を見てみたいとヒロは感じた。そういう視点で世界を捉える事は今までの彼に無かった要素だった。ヒロの悩みに新しい切り口が与えられた。マユコらしい芸術家肌の発想だと思った。
上映会は静かな一室で数人の関係者の内で開かれた。
『新たな自然と神の幻像』という一作のみが公開された。
密林に降り立った未来人が築いた科学基地で〈神の意思〉といわれる液体を満載した宇宙船が造られる。数十億光年もの時間を飛び続けた飛行船は暗黒の世界〈宇宙の果て〉へ到着する。宇宙同士を隔てる見えない壁が恒久に広がる中で〈神の意思〉をその壁面に向かって放射する。壁を突き抜けて行くこの液体は新しい第二の宇宙に到達し未踏の異次元空間へと散布される。偉大なる死んだ未来人の声が我等とは違う宇宙に存在する第二の生命体に〈神〉の存在を知らしめる。
ヒロは思い悩んだ。この地球を包む宇宙とは異なる別宇宙や別生命体が存在する事は俄かに信じ難く思われた。人間の絶滅と新たな生命体の黎明。
「神を知らしめるとあったけどね。人間が神によって造られたのか、神が人間によって造られたのか、まずそれが前提問題だよ。だって自然の構造を揺るがす大問題ではないか。映画の結論は自然に対する人間の最大なる犯罪を揶揄している可能性も考えられるぞ」
ヒロの言葉を受けて彼の隣に座って居たマユコは首を横に振る。
「人間は自然に組み込まれたほんの一部に過ぎないでしょ。だけど人間の存在が無かったならば、我等の〈神〉さえ新しい生命体には理解出来なかった筈よ。人間に代わるこの第二の生命体が我等の歴史を知った時〈神〉という観念をどう捉えるかしら。神という超自然的な存在を理解する事は科学技術や文明の力では解き明かせない次元の話だわ。自然に秘められた生命への大いなる恩恵という側面をまず考えなきゃならないのよ」
ヒロは彼女の強い反応に驚きと好奇心を募らせた。マユコは続ける。
「私達が人間である事の意味は何だろうね。過去の生命体がやっとの思いで築いた結果が現在の私達でしょ。歴史という束縛から人間は離れられないのよ。だからって私達が不自由であると結論して欲しくは無いの。だって人間は未来の世代に新しい生命を託す為に命懸けで戦っているのだもの」
ヒロは彼女の様な芸術家が未来の世界に於いてどんな変化を起こすだろうかと夢見た。
翌日ヒロは毎週通っている精神クリニックの先生の元を訪ねた。先生に昨晩観た映画について説明した。
「苦しいと感じたり自由じゃないと憤ったりする事は何だったのかなって。自分は間違っていたのかって。そんな風に感じた事は初めてだけど」
先生はこう答えた。
「精神医学では悩む事自体を病気とは診ないの。誰だって悩んで苦しんで生きて行くのだからさ。精神の病気は、人として誰もが当たり前に考える事を、全く考えられなくなる時に発症するの。今のあなたは正常。健康だよ」
「では自由って何ですか。どういう時に人は自由だと言えるのですか」
ヒロは一番気になる疑問を問うた。
「自由とは精神的な自由を指すと先生は思うの。あなたの心の中は誰にも解らないのよ。そうでしょ。家に帰ったら映画の中に描かれた第二の宇宙を改めて想像してみて。頭と心で色々考えてみるの。それも自由の在り方の一つだよね」
病院の外は、午後のムッとする熱気に満ちて暑かった。人間の消滅と死後の恩恵。それを考えている己をまた省察するこの瞬間が、一際愛おしく感じられた。より深い自由の中に、自分が生きている感じがした。青春は、その寂しさとの引力から、私達の鎖をそっと解いて、未来へと弾き返して呉れる不思議な時間。その温もりの籠った機械仕掛けの原景は、誰の胸にも授けられる豊かな神の川。未だ訪れぬ秋色の季節が、架空の風景のように現れた。ヒロは心の中に吹き抜ける七色の風を、ギュッと手の中に、掴まえようとした。

小さな町の映画館

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