執筆という行為

『PDF読書から続く道』
〜興味のままにビジネスも〜
25.06.29 sun.

はい。ららChanです。読書する事を、現代の僕らは趣味というよりも、義務に近いと言わねばなるまい。これは、結果的に読み切る事を狙わずとも、隙間時間に少しだけ読み進める事を反復する行為の遂行者となる事だ。僕は、音楽を中心に暮らす歌い手であるから、読書はメインワークには出来ない現実的な制約もある。

執筆をしてた頃は、読むことは書くこと以上に大事にしてた。読み進めるときの、言葉の順序や文の締め方や続け方に、自然さを持たせる事を重視しつつ、書きたい事を書き尽くすことも、期待以上の内容を届けることも、大切にしていた。小説を書いたり、詩を綴ったり、散文を書くことの悦楽とは、あくまで正しい文章とはなんだ、というテーマを第1条件として、言葉の森に佇む行為である。執筆の厳しさとは、読者に文法を意識させずに、意味内容を伝達すること。

僕の文章への情熱は、今もブログ執筆に繋がっている。論理も感情も、角度をつけて構築しつつ、そこに愛というコード(解き明かすキー)を、謎を明かす結論へ導く大きな主題にしていたりする。読書とは、サポート付きの執筆でもあって、読むことは、作者の言葉を受けて、文章を再構築する作業であるから、執筆といってもおかしくない。執筆と読解は可逆的に行き来する、審美的な交通機関なので、執筆という作業は、読者の数だけ再構築を請け負う、書き手と読み手の信頼関係の変奏かもしれない。

僕は文学部という狂気の国を経験して、作家修行もした歌い手でもあるので、芸術というジャンルに近い部分で、様々な創作を繰り返してきました。歌は、読み上げる、歌い上げる、伝え方の技法であって、そこに美が存在する事を、聴き手に再認識させることで、楽曲を再構築する。

音楽は、聴き手の数だけ再現させる愛の変奏であるから、美という形式を借りて、愛に回帰させる時間的な芸術表現である。(今日はここ迄)

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